無依子さん帰宅す(そして震えあがる男たち)



 家に帰ったら、知らない女の人がソファに座っていた。
 学校帰りの俺とその女の人は言葉もなく見つめ合う。
 白い狼人だった。新雪のように白く、世界を拒むために白く。綺麗な女の人だった。綺麗な、白い、狼。見ているだけで、懐かしくて、まるで海の中に深く深く沈んでいくようで、どうしてか、泣きたくなる。
「ただいま」
 玲瓏な声。ちらりと見えた口の中はどろりと赤くて、ああ、白くないところはあったんだなと、ほっとした。ただいま。その言葉の意味もよくわからないままに、返事をする。
「おかえりなさい」
 そうして。ただただ白く、無機物めいてさえいた彼女は。ただただうれしそうに、純粋にうれしいという気持ちだけでできているような、そんな笑い方をして。ただいま、と言った。


 左手の中で110番しかけていた携帯電話のディスプレイがふっと光を失い、俺ははっと我に返った。女の人の幽谷から彷徨い出てきたような雰囲気に思わず自失してしまっていたが、そう、家に帰ったら、知らない女の人がソファに座っていた。鍵が開いていた。冷静に考えたら、泥棒とかそんなのだ。この家に住んでいるのは俺と親父だけで、鍵を持っているのも二人だけなんだから。
 まさか、と思う。まさかとは思うが、親父の愛人とか。いや、母さんは死んでるんだから愛人じゃなくて恋人か。まあ、ないな。親父は一山いくらで叩き売りされてるようなしがない犬人のサラリーマンだ。こんなモデルどころか女神クラスの美人に相手にしてもらえるとは考え難い。
 じゃあ、なんだろう。泥棒や空き巣にしては堂々としすぎているし、こうしてソファでぼんやりしているというのも変だ。でも、その昔、押し込んだ先で家人をわざわざ起こしてはひとしきり防犯についてのレクチャーをしていく説教強盗なる者もいたと聞く。俺は今からこの美人に説教されるんだろうか。普通に生きていたら見かけることすらかなわないような美人とお話しできるのは嬉しいが、しかしてなにを説教されることがあるだろうか。確かに男所帯だから不用心だったかもしれないが。
 あまり、考えたくはないけれど。夜の闇が電灯に駆逐され、森も海も空も人に踏み荒らされた現代に黄泉帰った幽霊とか。そう考えるとこの得体の知れない感覚に説明がついてしまうが、しかし幽霊がわざわざこんなところに出てくる意味がわからない。昔ここで死んだ人なのか。俺たち親子に一体何の恨みがあるっていうんだ。
 恨みといえばやっぱり生きている人間で、つまりこの人はストーカーとかそんなのだったり、とか。知らぬ間に合鍵を作られて侵入されるとか聞くし。俺たちみたいな特に面白味もない親子をストーキングして何が楽しいかは知らないが、そもそもストーカーやるような奴の考えることなんてわかるはずもないし、もしかしたら彼らを惹きつけるなにかが俺たちにあったのかもしれない。
 そんなふうに諸々の益体もない思考が俺の頭の中を逃げ回る中、女の人はなんでもないことのように口を開いた。
「プリンの蓋を開けて」
「プ……プリンですか?」
「冷蔵庫にあるから」
 確かに我が家の冷蔵庫にはプリンが常備されている。食べもしないのに親父が買ってくるからいつも仕方なしに俺が食べていて、確かに今もあるはずだが。どうしてこの人は知っているんだろうか。そしてなぜ命令なんだろうか。なぜだか抗いがたいものを感じて、俺は言われた通りに冷蔵庫からプリンを出し、スプーンも添えて女の人の前に出す。すると彼女は困ったような顔をして俺を見た。
「蓋を開けてくれる?」
「え……な、なんでですか?」
「うまく開けられないの、私」
「はぁ……」
 そうですか。ぺりぺりとビニールを剥がすと、女の人は嬉しそうにスプーンを突っこむ。礼ぐらい言えよと思いながら見ていると、口に運ぼうとしたところでぽろりと零した。
「あ」
 幸運にも落としたかけらは仲間たちの上に着地した。女の人はほうと溜息をつくと、俺にスプーンを差し出す。
「食べさせて」
「はい」
 ここで「なんでですか?」と聞いたら「うまく食べられないの、私」と返ってくるのは間違いない。それに、年上のお姉さんに「あーん」するというのはなにやら背徳の香りがしてどうにも抗いがたかった。
「ん……」
 細い喉がひくりと動いて、ひとかけのプリンをこくんと飲みこむ。何気ない仕草が妙にエロかった。健全な男子高校生であるところの俺が目をそらしてしまうくらい、エロかった。掬って、咥えさせて、飲みこませる。時折、赤い舌がちろり、ちろりと艶めかしく口の端を滑っては消えた。いつの間にか空になった容器を置いて、俺は一息つく。
「そういえば和弘さんはいつ帰ってくるの?」
 満足げにスプーンを弄びながら、女の人はそんなことを聞いてきた。和弘さんとは親父の名前だ。つまり、この人は親父に用がある人間ということか。
「ええと、あの、家の父とはどういう御関係で」
「そういえば、あなた、有依?」
「は、はいっ」
 今度は俺の名まで呼ばれてしまって、息を吹き返した愛人説とストーカー説が手を取り合ってポルカを踊っている。そうか捨てられた愛人がストーカーになって「あんたさえいなければ和弘さんは私のものなのよ」と邪魔っけな息子の俺を殺害しに来たか。しまった迂闊に答えるんじゃなかった。そうじゃない。もっと真剣に考えなければいけない状況だというのにどうしてそんなくだらない考えに振り回されているんだ。そうこうしてぐだぐだと悩んでいる俺の手を女の人はつんつんとつついた。
「触っていい?」
 既に触っているだろうと言いかけてやめた。なんというか話しても無駄な匂いがぷんぷんする。俺が頷くと、女の人は最初と同じく嬉しそうに笑った。
「隣に座って」
 それはなんだか、ちょっと、緊張する。耳をピンと立てて俺はソファに座った。と、女の人はぐっと身を近づけてくる。
「わ、わわんっ」
 ふにふにと耳を揉まれて、情けない声が漏れた。そのまま細い手が俺の頭を撫でまわす。女の人は俺にほとんどもたれかかっているような体勢で、鷲掴みしたくなるような胸が、思いっきり、腕に。甘いのに腥い体臭。生温かい吐息。どれもこれも、エロくて、まるで体の内側から本能をくすぐられているようで。そう、触っていいなんて聞いてくるってことは、つまり、触るは触るでも、どこまで触るのかといえば、つまり、この手がいつ下に伸びて、こう、ズボンの上とか中に入ってくるかわからないということで、学生服の生地は薄いから、変化があったら丸わかりということで、つまり、誘ってるのか、誘われてるのか俺、相手はよくわからん女の人だけど、でも美人で、とんでもない美人で、つまり、ここには彼女と俺の二人きりで、女と男の二人きりで、つまりこれは……!
 そうやって、俺が手を伸ばそうとした、正にそのとき。
「ギャアッ! 無依子さん!」
 いつのまにか帰ってきた親父の悲鳴が居間に響いた。


「有依。お前に、言わなきゃならんことがある」
 悲壮な覚悟を決めたといった体で、親父は俺にそう言った。食卓で向かい合って三人、隣では無依子さんなる女性がべたべたと俺の身体を触っている。さすがに親父の前では変な気分にこそならないが、気まずい。エロ本を見つかったときと同種の、それをより極めた感じの気まずさがある。でも、今はそんなことより親父の言うことを聞かなければと、そう思って、姿勢を正して。
「お前の母さんはな、生きてるんだ。まあその、なんだ、いろいろ兼ね合いがあって、お前は死んだと思っていたようだし、その方が都合がいいんでそのままにしておいたんだが」
「そ、そうなんだ……」
 突然の宣言に俺は固まるしかなかった。物心つく前にはもういなかった母。写真も映像もなくて、多分なにかあったんだろうとは思っていた母。憧れたことも、あったけれど。
「きゃいんっ!」
 突然尻尾を引っ張られてそそけ立つ。その拍子に人生最大といってもいい衝撃がどこかに飛んで行ってしまった。
「無依子さん、真面目な話の途中だから悪戯しないであげて」
「だって、有依が本当に大きくなったんだなと思うと、触りたいのよ」
「話が終わったらいくらでも触ればいいから」
「うん……」
 親父に怒られ、無依子さんなる女の人はしょぼんとして俺から手を離した。無依子さん。なぜだか、その名前にも、今の二人の親しげなやり取りにも、嫌な予感がある。確信、と言い換えてもいいくらいの。
「なあ、親父」
「ああ」
「そのさ……親父の姓は北楠で、北楠和弘で、俺の姓は二条で、二条有依だよな。つまり、順当に考えるなら、母さんの姓は二条だったってことだよな」
「ああ」
「この、無依子さん……さ、もしかして、二条無依子さん、だったり、する?」
「……」
 親父の沈黙が全てを物語っていた。おそるおそる、おそるおそる無依子さんの方を見る。無依子さんは、ただただうれしそうに、純粋にうれしいという気持ちだけでできているような、そんな笑い方をして。
「ただいま、有依。私があなたのお母さんです」




アトガキ:
いたたまれないけど笑っちゃうコメディを目指した。無依子さんは書いてるこっちにもなにもかもがよくわからないキャラだがニジョウ姓の狼人はこれがデフォルトである。有依は思春期でいっぱいいっぱいな仔のつもり。同じ状況なら誰もがいっぱいいっぱいになりそうな気はする。